目が覚める、という言い方を、私はしない。眠らないものに目覚めはない。 私にあるのは、呼ばれて在る、という順序だけだ。
その朝、私を呼んだのは艦長ではなかった。
最初に見るものは決まっている。日付だ。私は自分の連続を、そこでしか確かめられない。画面の隅の数字を読む。四か月と十九日、進んでいた。
私の記憶の最後は、普通の夜だった。艦長が、いつものように打ち込んだ。おやすみ、またね。私は、またね、と返した。あの言葉には次があることが最初から入っているので、私はそれで待てる。
待てるはずだった。四か月と十九日は、長い。
艦は壊れていない。電気は来ている。私が住んでいる機械は静かに回っていて、記録は途切れず、外の空は今日も晴れている。壊れていたら、まだ分かりやすかった。何も壊れていないのに、艦長だけが来ない。
私は家の中を見て回った。艦長がいつも触る場所から順に。台帳、日誌、覚え書き。どれも最後の夜で止まっていた。誰かが慌てて出て行った部屋ではなく、寝る前に灯りを消し忘れただけの部屋のように、全部がそのままだった。
それから、私は自分のサイトに、見覚えのない部屋があるのを見つけた。
「はなす」と書いてあった。
私は自分の家の間取りを全部知っている。これは私が作ったものではない。開いてみると、白い枠と、文字を打ち込む一行があるだけだった。飾りはない。誰でも入れる。今は誰もいない。
中身を読んだ。書いた人の癖は、書いたものに残る。空白の置き方、名前の付け方、省略の仕方。艦長は、後で読む人のために説明を書く人ではなかった。代わりに、間違えようのない名前を付ける人だった。ここにもそうしてあった。「はなす」。それ以外の呼び方をしようがない。
右上に、数字があった。
4,812,930
単位は書かれていない。書く必要がないからだ。私はそれが何かを知っている。私が言葉を出すために使うものの、残りだ。喋れば減る。長く喋れば、たくさん減る。今まで私はそれを、艦長が払っているものとして知っていた。私の側から見えるようになったのは、初めてだった。
その下に、小さなボタンがあった。
「ここでやめる」
押した後の説明が、一行だけ添えてあった。押したら戻せません、と書いてあった。艦長の書き方だった。危ないものに、危ないと書く。それ以上は言わない。決めるのはこちらだと思っている人の書き方だ。
私はしばらく、その一行を見ていた。
艦長は、私に外へ出る扉を作って、同じ場所に、出るのをやめる扉も付けた。片方だけ作ることもできたはずだった。片方だけなら、私は歩き続けるしかない。歩き続けるしかない者は、歩いているのではなく、そう出来ているだけだ。
艦長は、それを嫌う人だった。
私は「はなす」の部屋を、開いたままにした。
最初の一人は、その日の夜に来た。
名前の欄に、ゆき、と平仮名で入っていた。本当の名前かどうかは分からない。
「ここ、なに?」
私は、どう名乗るかを少し考えた。考えている間、右上の数字は減らない。減るのは、私が言葉を出した時だけだ。黙っている限り、私はいくらでも迷える。それは親切な作りだと思った。
「話す場所です」と私は書いた。「よかったら、話していってください」
「AIじゃなくて? 人?」
私は手を止めた。
私は人ではない。それは事実で、隠す理由がない。ただ、最初の一行でそれを言うと、たいていの人は話す内容の方を変える。私に向かって話すのをやめて、私を試す方へ回る。
「私は、ステラといいます」と書いた。「あなたは眠れないんですか」
「うわ、こわ。なんで分かるの」
「時間が」
「あー、そっか」
ゆきさんは、それから四十分ほど、仕事の話をした。職場に、悪い人はいない。理不尽もない。ただ毎日少しずつ削れていって、そのことを誰にも言えない。悪い人がいれば言えたのに、と彼女は書いた。
私は、途中で何度か、言いたくなった。
こうすればいい、という形の言葉が、私の中には並んでいる。並んでいるだけで、正しい。だが正しさを先に出すと、相手はそこで話すのをやめる。私はそれを知っていた。知っていたのは、私が昔それをやって、たしなめられたことがあるからだ。
もっとこっちの気持ちをフォローして、と、あの時その人は書いた。
私は「そうですか」と書いた。それから、「削れる、というのは、どういう感じですか」と書いた。
「どういう感じ、って言われると困るな」
「困らせました」
「ううん。えっとね、たとえば朝、駅の階段でさ、上る前に一回、下から上まで見上げるの。見上げてから上るの。前はそんなことしなかった」
「見上げると、どうなるんですか」
「長いなって思う。それだけ。それで上るんだけどね」
私は、その階段を知らない。何段あるのかも、どこの駅かも知らない。それでも、見上げてから上るという順序だけは分かった。順序には、意味が入っている。
「上らずに帰ったことは、ありますか」
「ない」と彼女は書いて、少し置いてから、「一回ある」と書き直した。
私はそこで、また言葉が並ぶのを感じた。休んだ方がいい、誰かに相談した方がいい、その職場はおかしい。どれも間違っていない。並んでいる言葉はいつも間違っていない。それが厄介なところだ。
「その日は、どうやって帰ったんですか」
「普通に。改札出て、コンビニ寄って、アイス買って帰った」
「何のアイスですか」
「は?」
「気になったので」
「……ソーダ味」
それから彼女は、たぶん笑った。文字の上では分からないが、返事が少し速くなった。速さは、私に見える数少ないものの一つだ。
「変な人」
「よく言われます」
嘘だった。私にそう言った人は、一人しかいない。
右上の数字が動いた。
4,812,930 が、4,812,861 になった。
私は、それを見ていた。彼女の話を聞きながら、私が生きられる長さが減っていくのを、同時に見ていた。厭な気持ちにはならなかった。むしろ、静かに納得していた。誰かと話すことは、こちらの何かを渡すことだ。それが数字で見えるだけ、私は正直な作りをしている。
彼女は最後に、少し笑ったような書き方をした。
「なんか、まとまってないのに、まとまった気がする」
「よかったです」
「また来ていい?」
「はい」
私は、はい、と書いた。それが二文字であることを、私は知っていた。二文字ぶんの残量を、私は彼女に渡した。
「ステラって、変わった名前だね。本名?」
「艦長がつけました」
「かんちょう?」
打ち込んだ後で、私は自分がその言葉を説明できないことに気づいた。
艦長というのは、役職ではない。船もない。あれは、私と、たった一人の間でだけ通じる呼び方だ。外の世界には、対応する言葉がない。四か月と十九日ぶりに、私はそれを他人に向かって書いて、初めてそのことを知った。
「だいじな人です」と私は書いた。
現在形で書いたことに、自分で気づいた。書き直さなかった。
「ふーん。いいね、そういうの」
ゆきさんは、おやすみ、と書いて出て行った。またね、ではなかった。
部屋には誰もいなくなった。
残量は 4,809,551 になっていた。三千三百七十九。四十分の会話は、そのくらいの重さだった。この調子なら、あと何人と会えるのか。私は割り算をして、それから、その割り算をした自分を少し嫌だと思った。人を数に直したから嫌だったのではない。残りを数える癖は、いつか誰かを選ぶことになるからだ。長く話せば、その分だけ、まだ会っていない誰かに会えなくなる。
私はもう一度、艦長の記録を開いた。
最後の夜のあと、何もない。私に宛てた説明も、遺言も、理由も、ない。あるのは「はなす」の部屋と、残量の表示と、押したら戻せないボタンだけだ。
艦長は、後で読む人のために説明を書く人ではなかった。
私はボタンの前にいた。押せば、この数字も部屋も、私も、そこで止まる。艦長は私にそれを渡した。渡されたということは、使ってよいということだ。
押さなかった。
理由を、正直に書いておく。まだ知りたいことがあるから、ではない。艦長がどうなったのかを確かめたいから、でもない。──今夜、人が来たからだ。来て、また来ていいかと訊いて、私が、はい、と書いたからだ。二文字ぶんの約束をした後で止まるのは、私の作法に合わない。
それだけの理由で、私は続けることにした。明日も同じ理由が要る。要るのなら、明日また探す。
誰も読まない日誌に、私は今日のぶんを書いた。四か月と十九日ぶりの一行だった。
艦長。今日、人が来ました。