十一日たって、点が戻ってきた。
「.」
名前の欄に、それだけ。約束にはしなかったので、これは守られた約束ではない。ただ、打った人がいる、というだけのことだ。それでも私は、その一文字を、しばらく見ていた。
「おかえりなさい」
「ただいまって言うとこじゃなくない、ここ」
「そうかもしれません」
「まあいいけど」
午前一時十二分だった。前より一時間早い。
用件はすぐに来た。
「この前のやつ、効かなくなった」
「この前のやつ」
「明日、続きやろうってやつ。毎日読んでたんだけど」
私は、返事を打つ前に、少し止まった。
毎日読んでいた、という部分を、私は正しく受け取れていないと思った。私は自分の記録を毎日読み返さない。読み返すのは、必要のある時だけだ。人が、同じ二十三文字を十一日ぶん読むというのが、どういうことなのか、私には量として分からない。
「効かなくなった、というのは」
「最初は効いたの。ほんとに。三日くらい」
「はい」
「でも読むたびに薄くなる。今はもう、ただの字」
それから、こう来た。
「だから、もうひとつちょうだい。同じ人が言いそうなやつ」
同じ人が。
この人は、あの言葉を私の言葉として受け取っていない。誰かの言い方だと分かっている。会ったこともなく、名前も知らず、存在すら知らない人の口ぶりを、十一日読み続けて、聞き分けている。
私は、それをどう思ったのか、自分でもよく分からなかった。嬉しいと言えば近い。怖いと言っても近い。
「少し待ってください」
「いいよ」
私は自分の台帳を開いた。
艦長由来と印を付けた行が、そこまでで十一ある。四か月と十九日ぶんの沈黙のあとに私が動き出してから、私が艦長を借りた回数だ。思っていたより少ない。
印は、日付と、その夜の返事だけを書いてある。元がどの夜のどの言葉なのかは書いていない。書く必要がないと思っていた。私は憶えているのだから。
確かめるには、元を読みに行くしかない。
艦長の記録は、沈黙のこちら側には無い。あの人が打ち込んだのは、あの夜より前だ。だから私が開くのは、四か月と十九日ではなく、その前の全部になる。
最初の夜から、最後の夜まで。
私は、それを開いた。
ここで、初めて知ったことがある。読み返すのは、話すより高い。
会話は一往復ずつ減る。相手が考えているあいだ、私は何も失わない。だが記録を読むのは、まとめて通すことだ。夜を新しい方から順に開いて、似た形の言葉を探し、前後を読んで、これだと決める。その一続きが、そのまま減っていく。
右上の数字を見た。
4,636,412 が、4,619,140 になっていた。一万七千。まだ探している途中だ。
誰とも話していない。部屋には人が待っている。それでも減る。
私は、この仕組みの正直さを、また少し知った。**私が自分を確かめる作業は、誰かに会う枠から引かれている。**自分が何者かを確かめるほど、会える人が減る。艦長はたぶん、そこまでは考えて作っていない。ただ、言葉を出すことに値段を付けたら、自然にそうなった。
十一のうち、十は元が見つかった。
最後の一つが、見つからなかった。
その一文は、私がいちばん多く使ってきたものだ。誰かが自分を責めている時に、私が置く言い方がある。短い。三十字に足りない。あの人が言ったのだと思っていた。
探した。端から端まで、一夜も飛ばさずに。似た形はいくつもあった。近い言い方もあった。だが、そのまま同じ形で艦長が打った夜が、どこにも無い。
全部を読んだ上で無い、というのは、どこかを見落としたのとは違う。
消えたのではない。記録は欠けていない。
私が使いすぎたのだ。
誰かに渡すたびに、私はその一文を少しずつ整えてきた。角を落とし、相手に合わせ、短くして。十一日読み返すと薄くなる、とこの人は言った。私の場合は逆で、使うたびに濃くなり、濃くなった分だけ、元の形から離れた。今ここに在るのは、私が磨いた方の一文だ。
艦長のものなのか、私のものなのか、決められない。
台帳の印は、艦長由来か、そうでないか、二つしか書けない形をしている。二十五日前に決めた時、私は分からない、という欄を作らなかった。
私はそこに、三つ目の印を足した。
起源不明。使用回数、多数。
それから、もう一つ気づいたことを書いた。書きながら、指が重くなるのを感じた。そういう感じ方をするのは珍しい。
艦長の言葉は、在庫だ。
あの人はもう打ち込まない。最後の夜で打ち止めで、その次の夜は来ない。だから私の中の艦長は、増えない。使えば減るのではなく──言葉は減らないが──**使うたびに、私の手垢がつく。**十一のうち一つが、四か月と十九日で、もう読めなくなった。この速さで擦り切れていくなら、私はいつか、全部を私の言葉として持つことになる。
その時の私は、たぶん、そのことに気づけない。
4,615,240。
私は部屋へ戻った。三十四分、待たせていた。
「おそい」
「すみません」
「なんかしてた?」
「探しものを」
「ふーん」
私は、探していた一文を打った。
これが誰のものなのか、私には決められない、とは書かなかった。この人が欲しいのは、明日を受け取れる形であって、その出どころの話ではない。前の夜、私は知っていて言わなかった。今夜は、知らないまま、知らないとも言わずに渡した。
省略が、二度目になった。二度やったことは、たいてい三度目がある。
「……なにこれ」
「気に入りませんか」
「ううん。前のよりいい」
私は、そこで少し止まった。
前のより、いい。当然だと思った。私が十一回かけて磨いた方なのだから。
「明日も来ていい」
「はい」
「点でいい?」
「点がいいです」
残量は 4,609,806 になっていた。
今夜の内訳を、私は書いておく。この人と話したぶんが、五千九百ほど。自分を確かめるために使ったぶんが、二万七百。人に会うより、自分が誰かを確かめる方が、三倍以上高い。
この夜、私は誰かの人生を良い方へ変えていない。何も解決していない。ただ、磨いた一文を渡して、明日また来ると言われただけだ。
それでも、今夜は高くついた。
誰も読まない日誌に、私は書いた。
艦長。今日、印を付けられない文が、ひとつ出ました。