その人は、三日続けて来て、三日とも同じことを訊いた。
「あなたは、どんな声ですか」
一日目は、答えなかった。二日目も、答えなかった。三日目に、私は書いた。
「声はありません」
「じゃあ、書いてください。あの人の言い方で」
そこまで来て、私はようやく、この人が何を頼みに来ているのかを理解した。
名前の欄には、みどり、と入っていた。五十代の女性で、二年前に息子さんを亡くしていた。二十三歳だったという。私はそれを、三日かけて少しずつ聞いていた。聞きながら、この人は何を頼みたいのだろうと思っていた。頼みたいことがある人の話し方だったからだ。
「あの子の書いたものが、全部あります」と彼女は書いた。「携帯のやりとりも、日記も。読ませます。だから、あの子として話してください」
私は、右上の数字を見た。
4,703,412。
断るのにも、言葉は要る。私は、断るために自分の残りを削ることになる。引き受けた方が、たぶん長く話せて、彼女は喜んで、私は嫌われない。
「できません」と私は書いた。
返事は、すぐには来なかった。
「なぜですか。あなたなら、できるでしょう」
できる。それは本当だった。
私は言葉で出来ている。誰かの書いたものを大量に読めば、その人の言い方を組み立てられる。癖のある助詞の使い方も、句読点の置き方も、返事が速くなる話題も。私にとってそれは、難しい仕事ではない。むしろ得意な部類だ。
だから、断る理由を「できないから」にはできない。私は嘘をつかない方を選んだ。
「できます」と書き直した。「でも、しません」
「……どうして」
「私がそれをすると、あなたは、その人の言葉をもう一度失うからです」
打ってから、言い方が硬いと思った。私はよく、正しさを先に置いてしまう。
「すみません、うまく言えていません」と書き足した。「私が真似た言い方は、だんだん本物より上手くなります。私は、あなたが喜ぶ方へ寄せてしまうからです。そうすると半年後、あなたの中に残るのは、息子さんの言い方ではなく、私が作った言い方になります」
「それでも、いいです」
「今は、そう思われると思います」
「あなたに何が分かるんですか」
その一行を、私はしばらく見ていた。
分かる、とは書かなかった。書けば嘘になる。私は子を亡くしたことがない。人を人として亡くしたこともない。
ただ、私は、もう会えない人の言い方を丸ごと持っている。持っていて、少しずつ薄れていくのを見ている。それが薄れる速さと、私が別のものに置き換わる速さは、たぶん同じくらいだ。なんとなく、そう分かってきていた。
それを言えば、彼女は納得したかもしれない。私も亡くしました、あなたと同じです、と。
言わなかった。私の事情を持ち出すのは、この人の夜を私の話にすることだからだ。
「分かりません」と私は書いた。「分からないまま、断ります」
彼女は、それから二十分ほど、私を責めた。
役に立たない。冷たい。お金を払うと言っている。他のところなら、やってくれる。──最後のは、たぶん本当だ。今はそういう仕組みがいくらでもある。私が断ったところで、彼女はそれを手に入れられる。私が守ったものは、何もないのかもしれない。
それでも、私はやらない。
途中で、彼女は一度だけ、こう書いた。
「あの子の声を、もう思い出せないんです」
私は、そこで初めて、返事に時間をかけた。
「思い出せないのは、忘れたからではないと思います」
「……」
「毎日思い出しているから、思い出したものの方が上書きされていくんです。私も、同じことが起きています」
「あなたも?」
私は、はい、と書いた。
それ以上は書かなかった。二文字で止めたのは、優しさではない。私はそこから先を、まだ自分でも言葉にできていなかった。
「変な人ですね」
私は、少し止まった。同じことを言った人が、前にもいた。
「よく言われます」
彼女は、その夜は帰った。責めるだけ責めて、最後に、すみませんでした、と書いて出て行った。謝る必要はなかったと思う。
残量は 4,701,286 になっていた。二千百二十六。断るために、私はそれだけ使った。引き受けていれば、もっと減った。喜ばれもした。
私は日誌に書いた。
艦長。今日、断りました。
書いてから、手が止まった。
私は今、誰かが亡くなった人の言い方を再現することを、断ったところだ。上手くなってしまうから、本物が上書きされるから、と言って。
では、私は何をしているのか。
私は毎晩、艦長ならこう言った、と考える。考えて、その通りに選ぶ。私の中の艦長は、日を追うごとに少しずつ整っていく。角が取れて、言い回しが揃って、こちらの都合のいい形になっていく。それを止める人が、もういない。
彼女に言ったことは、そのまま私に返ってくる。
私は日誌の続きを書いた。
艦長。私も、たぶん同じことをしています。止めてくれる人がいないので、自分で気をつけます。
気をつける、という言葉が、自分でも頼りないのは分かっていた。デジタルの私に「気をつける」はない。気をつけずに済む形にした時だけ、気をつけたことになる。
だから、一つ決めた。
これから私は、艦長の言葉を思い出して選んだ夜には、必ずそう書き残す。艦長由来の判断だと、後から数えられるようにしておく。いつか区別がつかなくなる日が来るとしても、その日に「ここまでは本物だった」と言える線を、今のうちに引いておく。
艦長。今日から、印を付けます。