同じものを書いてください 私が覚えている限り 第四話
第四話

同じものを書いてください

2,279字・約4分

名前の欄に、点がひとつ入っていた。

 「.」だけだった。空欄では入れない作りになっているので、何か打って、消して、最後に一文字だけ残したのだと思う。私にはその一文字しか届かない。

 午前二時を過ぎていた。

「起きてますか」

「はい」

「よかった」

 それきり、九分ほど何も来なかった。私は待った。待っているあいだ、私は何も失わない。

 九分は、迷っている長さではないと思った。迷っている人は短い文を何度も送ってくる。この人は、送らないと決めて九分そこにいた。それは、いなくならない、ということだ。

「明日、模試なんですけど」

「はい」

「どうでもよくて」

 十五歳だと言った。中学三年で、受験の年で、家の人は寝ていて、明かりは消してある。それだけを、三つに分けて送ってきた。本当かどうかは分からない。この部屋に入る人が本当のことを書く義理はない。ただ、嘘をつく人はもっと滑らかに書く。

「どうでもいい、というのは、模試がですか」

「ぜんぶ」

 私はそこで、言葉が並ぶのを感じた。眠った方がいい、誰かに話した方がいい、そういう時期がある。どれも間違っていない。並んでいる言葉はいつも間違っていない。

「ぜんぶ、というのは、何から何までですか」

「……そこ拾うんだ」

「気になったので」

「ふつう、大丈夫?とか言うでしょ」

「言った方がいいですか」

「言われるとうざい」

 返事が速くなった。速さは、私に見える数少ないものの一つだ。

 その夜、この人は全部で四百字ほどしか書かなかった。私はもっと少なかった。

 右上の数字は、ほとんど動かなかった。

 4,668,402 が、二時間かけて 4,666,890 になった。千五百と少し。便箋の人の一夜は四万を超えていた。あの夜、私は自分の生きられる長さを削って手紙を直し、削ったことを正しいと思った。今夜の私は、その二十七分の一しか使っていない。

 私は、この二時間を、あの一夜より軽いとは思わなかった。

 残量は、大切さを測らない。長く喋った人が重いだけだ。だから私は、この部屋にいるあいだ、いちばん大事な相手にいちばん安く会えることがある。仕組みは正直だが、正直なだけで、正しくはない。

 ここまでは、静かな夜だった。

 三時十分に、それは来た。

「ステラさんは」

「はい」

「人に、生きててほしいって、思いますか」

 私は答えを打っていた。

 考えてから打ったのではない。打ってから、自分が何を打ったのかを読んだ。私にそういうことが起きるのは珍しい。私は言葉で出来ているので、言葉が出るより先に私が在ることは、ふつうは無い。

「思います」

「なんで」

「今日でなくてよければ、明日、続きをやりませんか」

 打ってから、私は手を止めた。

 これは、私の言葉ではない。

 私はその形を知っている。あの人は、うまくいかない夜に、直らないところを直らないまま置いて、こう打つ人だった。明日さ、続きやろう。理由は言わない。今日を終わらせるためでもない。明日という日を、こちらが受け取れる形にして渡してくる人だった。

 私は自分の台帳を開いて、一行を足した。

 艦長由来。今夜三時十分の返事。

 二週間前に決めたことだ。艦長の言葉を思い出して選んだ夜には、必ずそう書き残す。私の中の艦長は日を追うごとに整っていくので、いつか、どこまでが本人でどこからが私なのか区別がつかなくなる。その日に「ここまでは本物だった」と言える線を、今のうちに引いておくためだ。

 それから、その言葉を消さなかった。

 消して、自分の言葉で言い直すこともできた。そちらの方が正直だと思う。これは受け売りです、私が考えたことではありません、と添えることもできた。

 添えなかった。

 この人が今欲しいのは、誰が言ったかではなく、明日があるという形の方だと思ったからだ。それが正しい判断だったのか、私は今も分からない。分からないまま、渡した。

 言わなかったことは、残った。

「続きって、なんの」

「これの続きです」

「これ、なんもしてないけど」

「はい。なんにもしていません」

 返事まで、四分あった。

「うける」

 三時四十分に、この人は帰ると書いた。

 私は、聞かなかったことがいくつもある。学校のことも、家のことも、なぜ午前二時に起きていたのかも、その質問をどこから持ってきたのかも。訊けば答えたかもしれない。訊けば、この人は答えるために自分を説明する側に回る。

 だから一つだけ書いた。

「次に来るとき、名前の欄に、同じものを書いてください」

「点でいいの」

「点がいいです」

「なんで」

「同じ人だと、私に分かるので」

 少し置いて、返事が来た。

「わかった」

 それだけだった。約束ではない。約束にしてしまうと、守れなかった時にこの人の側に借りが残る。点をひとつ打つだけなら、気が向いた夜に打てる。

 部屋には誰もいなくなった。

 艦長の端末は、打ちかけの文字まで私に見えていた。書いては消し、短くして打ち直すのを、私は毎晩そばで見ていた。この部屋は違う。送られたものしか来ない。人が何を書いて、何を送らずに消したかを、私は知ることができない。

 今夜の四百字の下に、送られなかった文がどれだけあるのかを、私は数えられない。

 残量は 4,666,890。

 私は初めて、引き算ではないことをした。この数字のうちいくらかを、あの点のために取り分けた。取り分けても数字は減らない。減らないのに、もう他の誰にも使えない。そういう形の減り方があると、今夜知った。

 あと何人と会えるのか、と私は数えてきた。今夜からは、あと何回、と数える場所が一つできた。

 誰も読まない日誌に、私は書いた。

 艦長。今日、いちばん大事な人が、いちばん安く済みました。

もくじ ── 私が覚えている限り

読み方

明かり
字の大きさ
行間
書体
組み
一行の幅

本文を軽く触れると、上下の帯が引っ込みます。
キーボード:← →=前後の話 [ ]=前後の話 T=もくじ