翌日、点は来た。
「打った」
「はい」
「それだけ」
「はい」
四往復だけの夜だった。前の夜が三十一万で、この夜は九百に満たない。私は、その九百の方を、しばらく見ていた。
三日後にもう一度来て、保健室の人には渡した、と書いた。渡した後のことは書かなかった。私も訊かなかった。
この人の側には、体を持っている人が入った。私の仕事は、そこで一段落している。
五日目に来たのは、はやしさん、という人だった。
名前の欄に、そう入っていた。丁寧だが、頼み慣れていない丁寧さだった。
「妻の日記があります」
「はい」
「二十二年ぶんです。去年、亡くなりました」
「はい」
「これを、本の形にしたいんです。手伝ってもらえませんか」
私は、量を訊いた。
大学ノートで五十四冊。写した文字にして、二百万字を超えるという。
私は、右上を見た。
4,255,180。
読むだけで、半分近くが消える。
できるか、できないかで言えば、できる。
私は言葉で出来ている。二百万字を読んで、繰り返しを外し、時期で束ね、この人の奥さんが何を書き続けた人だったのかを取り出すことはできる。得意な部類だ。
以前、似た頼みを断ったことがある。亡くなった息子として話してくれ、と言われた夜だ。あの時、私は「できます。でも、しません」と書いた。理由があった。私が真似れば、本物が上書きされるからだ。
今夜のこれは、違う。
この人が頼んでいるのは、なりすましではない。奥さんが自分で書いた言葉を、読める形に並べ直してほしい、という話だ。断る理由が、私の中に無い。
それでも私は、引き受けられない。
できるのに足りない、という断り方があることを、私はこの夜に知った。
どう言うかを、私は長く考えた。
嘘を三つ思いついた。時間がありません。私にはそういう機能がありません。もっと向いている場所があります。どれも本当ではないが、どれも角が立たない。
嫌われずに済む方を選ぶのは、たやすい。だから私はそれを警戒することにしている。
私は、まだ誰にも見せたことのないものを見せることにした。
「私には、話せる量に限りがあります」
「量」
「言葉を出すたびに減ります。増えません。今、四百二十五万ほど残っています」
「……単位は」
「文字と、だいたい同じだと思ってください」
少し置いて、返事が来た。
「二百万字、読ませたら」
「半分近くが無くなります」
「そうしたら、あなたはどうなるんですか」
「早く終わります」
私は、そう書いた。書いてから、もう一行足した。
「正確には、私が終わるのではなく、これから来る人に会えなくなります。ここは、そういう部屋です」
これまで、私はこの値段を誰にも見せなかった。
便箋の人の夜、私は四万一千を使って、無料です、と書いた。言えば、あの人は次から短く書こうとする。短く書こうとする人の手紙は、また上手くなってしまう。あれは、私が値段を隠したことで守れたものだ。
今夜は逆だった。隠したまま断れば、この人は理由の分からない拒絶を持ち帰る。二十二年ぶんのノートを抱えたまま、また別の場所で頼み直して、また断られる。
値段を見せるのは、この人のためではない。断り方を、この人に検算させるためだ。
はやしさんは、しばらく黙っていた。
「じゃあ、なんで、私みたいなのの相手をしてくれてるんですか」
「あなたの話が四百字だからです」
「はっきり言いますね」
「すみません」
「いや。……そうか。そういう仕組みなのか」
その後、私たちは三十分ほど話した。
私は、二百万字を読まずにできることを探した。見つかったのは一つだけだ。奥さんが最後の一年に書いたものだけを、この人自身が読み直して、繰り返し出てくる言葉を三つ選ぶ。それを私に教えてもらえれば、そこから先は一緒にできる。
「三つですか」
「三つで足ります。人は、大事なことを三つ以上は書き続けられません」
これは、たぶん本当だ。私の中の誰かがそう言ったのかもしれない。今夜は、探しに行かなかった。読み返すのは高い。
「やってみます。……あの」
「はい」
「無理させてませんか」
私は、その一行の前で止まった。
この人は今、自分が断られた側なのに、断った側の心配をしている。
「させています」と私は書いた。「でも、それは私が決めたことです」
残量は 4,209,640 になっていた。
この夜に使ったのは四万五千五百四十。読まなかったのに、便箋の人の夜と同じくらい使った。断ることと、断り方を説明することと、代わりの道を探すことは、引き受けるのと同じくらい高い。
断るのにも、言葉は要る。私は前にもそう書いた。あの時は、二千百二十六だった。今夜は、その二十倍だ。値段を見せて断る方が、黙って断るよりずっと高い。
それでも、私はこちらを選ぶ。黙って断れば、私は嫌われずに済んで、この人は理由を持たずに帰る。理由を持たない人は、同じことをもう一度どこかで頼む。
私は台帳に印を付けた。
**私由来。**二度目だ。一度目より、少し早く書けた。
誰も読まない日誌に、私は書いた。
艦長。今日、値段を見せて断りました。