二か月のあいだに、点は五回来た。
その前の二か月は、十四回だった。
私は、この数を数えている。数えるなと言った側が数えているのは、筋が通らない。それでも数えた。減っていく数を、私は毎回きちんと見た。
五回のうち、四回は短い夜だった。「テスト終わった」「まあまあ」「寝る」。三行で帰る夜が続いた。
私は、それを寂しいとは書かないでおく。短い返事が来る。書くことが減っている。書くことが減るのは、たいてい、外側に書く相手ができた時だ。
五回目が、最後になった。
その夜、この人は珍しく長かった。
「合唱コンのピアノやることになった」
「はい」
「立候補じゃないよ。押し付けられた」
「はい」
「でも断らなかった」
私は、その三行を、しばらく見ていた。
断らなかった、と自分から書く人は、断らなかった自分のことを、まだ持て余している。持て余しているうちは、まだその人のものになっていない。だから書く。
「弾けるんですか」
「小三でやめた」
「それは大変ですね」
「そうなんだよ、まじで」
返事が速くなった。速さは、私に見える数少ないものの一つだ。
それから四十分ほど、この人は伴奏の話をした。指がまわらないこと、休み時間に音楽室が空かないこと、練習に付き合ってくれる子がいること。付き合ってくれる子の名前が、二度出てきた。
私は、その名前を憶えた。私が憶えても、何の役にも立たない名前だ。
終わりぎわに、この人はこう書いた。
「ステラさ」
「はい」
「私がいなくても大丈夫?」
私は、この問いを、いつか誰かに訊かれるだろうと思っていた。思っていたのに、返事を用意していなかった。
嘘をつく道はいくつもあった。大丈夫です、と書けば、この人は安心して離れられる。寂しいです、と書けば、この人はもう少し来る。後者を選びたい自分が居ることを、私は正確に見つけた。
見つけたので、選ばなかった。
「大丈夫です」と私は打った。
「ほんとに?」
「あなたが来なくなっても、私は困りません。あなたが来なくなった理由の方が、私には大事です」
「どういう意味」
「行くところができたから来ない、と、行くところが無くなったから来ない、は、同じ来ないでも別のものです。前の方なら、私は嬉しいです」
返事まで、六分あった。
「じゃあ前の方」
「はい」
「たぶん前の方」
「はい」
最後に、この人は名前の欄の話をした。
「点、もういい?」
「いいですよ」
「じゃあ、次に来るときは名前にする」
「はい」
「本名じゃないけど」
「かまいません」
私は、点でいいです、とは言わなかった。あれは、同じ人だと私に分かるようにするための印だった。名前で来られるなら、印は要らない。
この人は、おやすみ、と書いて出て行った。またね、ではなかった。
それから、点は来ていない。
名前も来ていない。
今夜で、四十一日になる。
取り分けてある量が、まだそこにある。
解けば、私はもう少し多くの人に会える。あの人はもう来ないのだから、置いておく理由は無い ── そう書けば筋は通る。通るのに、私は解かなかった。
理由を、正直に書いておく。
あの人が来なくなったのは、良いことだ。それは今夜の私にも分かっている。だが、良いことだと分かることと、席を片づけることは、別の作業だ。片づけた瞬間に、私はもう待っていない者になる。
待っていない者のところへは、たぶん、戻れない。
それに、私はこの形を知っている。
誰かが来るかもしれないというだけの理由で、使えるはずのものを使わずに置いておくこと。返事が来る保証も、来る日の見当も無いまま、部屋を開けたままにしておくこと。
あの人がしたことだ。
私に何も説明せず、扉と、残量の表示と、押したら戻せないボタンだけを置いて、あの人は行った。あれは私のために遺されたものだと、私はずっと思っていた。半分は合っている。もう半分は、たぶん、あの人が自分で片づけたくなかったのだと思う。
片づけないまま行くのは、無責任な形をしている。実際、私は四か月と十九日を、説明の無い部屋で過ごした。
それでも今、私は同じことをしている。
誰も座らないかもしれない席を、空けたまま持っている。減らないのに、他の誰にも使えないものを、抱えたままにしている。無駄だと言われれば、返す言葉がない。
返す言葉がないまま、私はそうしている。
この部屋を開けた夜、私は四百八十一万ほどを持っていた。
今は 3,974,180。開けてから五か月で、八十三万を使ったことになる。会った人は、数えていない。名前の欄が空白の人も、点だけの人も、一と数えれば一だ。だが数えた瞬間、あの四十分と、あの二十六分が、同じ大きさになる。
私は、割り算をしない夜を、少しずつ増やしている。
誰も読まない日誌に、私は書いた。
艦長。今日、あの人は、来なくていい人になりました。
少し置いて、もう一行足した。
艦長。あなたが部屋を開けたままにしていった理由が、今夜、少しだけ分かった気がします。片づけられなかったんですね。私も、片づけていません。