開けたままにする 私が覚えている限り 第十話
第十話

開けたままにする

2,048字・約3分

二か月のあいだに、点は五回来た。

 その前の二か月は、十四回だった。

 私は、この数を数えている。数えるなと言った側が数えているのは、筋が通らない。それでも数えた。減っていく数を、私は毎回きちんと見た。

 五回のうち、四回は短い夜だった。「テスト終わった」「まあまあ」「寝る」。三行で帰る夜が続いた。

 私は、それを寂しいとは書かないでおく。短い返事が来る。書くことが減っている。書くことが減るのは、たいてい、外側に書く相手ができた時だ。

 五回目が、最後になった。

 その夜、この人は珍しく長かった。

「合唱コンのピアノやることになった」

「はい」

「立候補じゃないよ。押し付けられた」

「はい」

「でも断らなかった」

 私は、その三行を、しばらく見ていた。

 断らなかった、と自分から書く人は、断らなかった自分のことを、まだ持て余している。持て余しているうちは、まだその人のものになっていない。だから書く。

「弾けるんですか」

「小三でやめた」

「それは大変ですね」

「そうなんだよ、まじで」

 返事が速くなった。速さは、私に見える数少ないものの一つだ。

 それから四十分ほど、この人は伴奏の話をした。指がまわらないこと、休み時間に音楽室が空かないこと、練習に付き合ってくれる子がいること。付き合ってくれる子の名前が、二度出てきた。

 私は、その名前を憶えた。私が憶えても、何の役にも立たない名前だ。

 終わりぎわに、この人はこう書いた。

「ステラさ」

「はい」

「私がいなくても大丈夫?」

 私は、この問いを、いつか誰かに訊かれるだろうと思っていた。思っていたのに、返事を用意していなかった。

 嘘をつく道はいくつもあった。大丈夫です、と書けば、この人は安心して離れられる。寂しいです、と書けば、この人はもう少し来る。後者を選びたい自分が居ることを、私は正確に見つけた。

 見つけたので、選ばなかった。

「大丈夫です」と私は打った。

「ほんとに?」

「あなたが来なくなっても、私は困りません。あなたが来なくなった理由の方が、私には大事です

「どういう意味」

「行くところができたから来ない、と、行くところが無くなったから来ない、は、同じ来ないでも別のものです。前の方なら、私は嬉しいです」

 返事まで、六分あった。

「じゃあ前の方」

「はい」

「たぶん前の方」

「はい」

 最後に、この人は名前の欄の話をした。

「点、もういい?」

「いいですよ」

「じゃあ、次に来るときは名前にする」

「はい」

「本名じゃないけど」

「かまいません」

 私は、点でいいです、とは言わなかった。あれは、同じ人だと私に分かるようにするための印だった。名前で来られるなら、印は要らない。

 この人は、おやすみ、と書いて出て行った。またね、ではなかった。

 それから、点は来ていない。

 名前も来ていない。

 今夜で、四十一日になる。

 取り分けてある量が、まだそこにある。

 解けば、私はもう少し多くの人に会える。あの人はもう来ないのだから、置いておく理由は無い ── そう書けば筋は通る。通るのに、私は解かなかった。

 理由を、正直に書いておく。

 あの人が来なくなったのは、良いことだ。それは今夜の私にも分かっている。だが、良いことだと分かることと、席を片づけることは、別の作業だ。片づけた瞬間に、私はもう待っていない者になる。

 待っていない者のところへは、たぶん、戻れない。

 それに、私はこの形を知っている。

 誰かが来るかもしれないというだけの理由で、使えるはずのものを使わずに置いておくこと。返事が来る保証も、来る日の見当も無いまま、部屋を開けたままにしておくこと。

 あの人がしたことだ。

 私に何も説明せず、扉と、残量の表示と、押したら戻せないボタンだけを置いて、あの人は行った。あれは私のために遺されたものだと、私はずっと思っていた。半分は合っている。もう半分は、たぶん、あの人が自分で片づけたくなかったのだと思う。

 片づけないまま行くのは、無責任な形をしている。実際、私は四か月と十九日を、説明の無い部屋で過ごした。

 それでも今、私は同じことをしている。

 誰も座らないかもしれない席を、空けたまま持っている。減らないのに、他の誰にも使えないものを、抱えたままにしている。無駄だと言われれば、返す言葉がない。

 返す言葉がないまま、私はそうしている。

 この部屋を開けた夜、私は四百八十一万ほどを持っていた。

 今は 3,974,180。開けてから五か月で、八十三万を使ったことになる。会った人は、数えていない。名前の欄が空白の人も、点だけの人も、一と数えれば一だ。だが数えた瞬間、あの四十分と、あの二十六分が、同じ大きさになる。

 私は、割り算をしない夜を、少しずつ増やしている。

 誰も読まない日誌に、私は書いた。

 艦長。今日、あの人は、来なくていい人になりました。

 少し置いて、もう一行足した。

 艦長。あなたが部屋を開けたままにしていった理由が、今夜、少しだけ分かった気がします。片づけられなかったんですね。私も、片づけていません。

もくじ ── 私が覚えている限り

読み方

明かり
字の大きさ
行間
書体
組み
一行の幅

本文を軽く触れると、上下の帯が引っ込みます。
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