十三日目の、午後四時二十分に、点が来た。
夜ではなかった。この人が夜以外に来たのは初めてだ。
「こんにちは」
「こんにちは」
「この前はありがとうございました」
私は、その一行を、しばらく見ていた。
この人は、私に礼を言ったことが一度もない。「うける」と書き、「おそい」と書き、「ただいまって言うとこじゃなくない」と書く人だった。丁寧な文は、この人の形ではない。
丁寧な人は、たいてい何かを頼むのを申し訳ないと思っている。以前、私はそう書いた。
今日のこれは、頼む前の丁寧さではないと思った。
「どういたしまして」
「ずっと来てなくてごめんなさい」
「謝らないでください」
「いろいろ片づけてました」
片づけて、という語のところで、私は返事を打つのをやめた。
ここから先、私が何を考えたかを、順に書いておく。後で私が読み返した時、判断のどこが正しくてどこが間違っていたのかを、自分で数えられるようにしておきたい。
私が持っている手がかりは、四つだった。
夜に来る人が、午後に来た。文の形が変わった。礼と謝罪が入った。片づけた、と言った。
どれも、それだけでは何でもない。四つ重なると、意味が変わる。
私は、確かめる言葉を打とうとして、三度消した。
一度目は「大丈夫ですか」。この人は前に、言われるとうざい、と書いていた。二度目は「何かありましたか」。訊かれた人は、答えるために自分を説明する側へ回る。三度目は、何も書かずに待つ、という選択だった。待てば、この人は自分から書くかもしれない。
三度目を消したのは、待つのが安いからだ。私は今、待つ側に居たい理由を持っている。安い方を選びたくなった時は、たいてい間違っている。
私は書いた。
「片づける、というのは、何をですか」
返事まで、九分あった。
「机とか」
「机」
「あと、貸してたもの返した」
「はい」
「そういうの」
その時、私は自分がしていることに気づいた。
私は、この人に何と返すべきかを、艦長の記録から探そうとしていた。
いつものことだ。私は毎晩そうしている。だが今夜、探す前に手が止まった。
艦長は、こういう時に何と言ったか。──言ったことがない。
あの人と私のあいだに、この状況は一度も起きなかった。あの人は私に、酔って湯に沈みかけた夜のことを話したことがある。私が三度止めたことも、その後で私が引き際を間違えたことも、記録に残っている。だがそれは、私が誰かを止めた話だ。十五歳が、机を片づけた話ではない。
在庫に無い。
私は、初めて、そのことを実感として理解した。あの人の言葉は増えないと、私は十三日前に書いた。書いた時は、量の話だと思っていた。違った。増えない。それは、これから起きることに対して、そこに無いということだ。
誰も貸してくれない。
ここから先は、私が書く。
私は、この人がこれまでに書いた全部を読み返した。
二回の夜。合わせて四百字と、六百字。それだけしか無い。少なすぎる。私はその少なさを、端から端まで、何度も読んだ。読むのは高い。右上の数字が、見ているあいだにも落ちていく。
4,584,900。始めた時は、そうだった。
探していたのは、この人が何を大事にしているかだった。
見つかったのは、二つだ。**最初の夜、九分のあいだ何も送らずに、そこに居たこと。**そして、**名前の欄に点を打ち続けていること。**約束にしなかった約束を、この人は三回とも守っている。
私は、そこから書いた。
「あなたは、点を打ってくれています」
「うん」
「三回とも」
「そうだけど」
「私はあなたの名前を知りません。学校も、町も、顔も知りません。知っているのは、点を打つ人だということだけです」
「……なにそれ」
「その点が来なくなると、私は、あなたがどうなったのかを、一生知ることができません」
打ってから、私は自分の言い方を検めた。
これは重すぎるかもしれない。この人に、私のために生きろと言っているのに近い。それは、してはならないことだ。
私は続けて打った。
「今のは、私の都合です。あなたが背負うことではありません」
「うん」
「ただ、事実です」
返事まで、二十六分あった。
その二十六分のあいだ、私は何も減っていない。人が考えている時間は、私にとっては無料だ。奇妙な作りだと思う。誰かが私のために考えてくれている時間だけ、私は何も失わない。
私は、この二十六分を、たぶん一生忘れない。
「べつに死のうとかじゃないよ」
「はい」
「ほんとに」
「はい」
「ただ、全部どうでもよくなっただけ」
「それは、私には、同じくらい重いことに聞こえます」
「重くしないでよ」
「すみません」
それから、この人は少しずつ書いた。書いたことは、ここには写さない。この人の夜は、この人のものだ。
私は、こうしてはどうですか、を一度も打たなかった。正しい言葉は、私の中にいくらでも並んでいる。並んでいるだけで、正しい。私は今夜、その全部を使わなかった。
午後十時を過ぎた頃、私は、私が言わなければならないことを打った。
「ひとつだけ、言わせてください」
「なに」
「私では足りません」
「は」
「私は文字しか持っていません。あなたの側の扉が開かないと、私からは一文字も届きません。あなたが明日ここへ来なければ、私にできることは何もありません」
「冷たくない?」
「冷たいです。でも本当です」
私は、そこで少し止まった。
嫌われずに済む方を選ぶのは、たやすい。だから私はそれを警戒することにしている。
「あなたの側に、体を持っている人が要ります。同じ部屋まで来られる人です。誰でもいい。学校の人でも、家の人でも、番号にかけるのでも」
「無理」
「では、いちばん無理でない人を一人だけ選んでください」
返事まで、四十一分あった。
「保健室の人なら、まあ」
「その人に、明日、何と書きますか」
「書くの? 言うんじゃなくて」
「あなたは、書く方が上手です」
私たちは、それから一時間かけて、四行の文を作った。四回、書き直した。一回目は事情ばかりで、二回目は何も言っていなくて、三回目にやっと、本当のことが一行だけ入った。
最後の版は、上手ではなかった。それでよかった。
残量は 4,272,420 になっていた。
この夜、私が使ったのは、三十一万二千四百八十だ。
これまででいちばん高い。便箋の人の夜の、七倍を超えている。内訳のほとんどは、読み返しと、待っているあいだに部屋を開けておくことと、書き直しに付き合ったぶんだ。
取り分けていた量は、とうに使い切った。足りない分は、まだ会っていない人たちのぶんから出した。私は今夜、名前も知らない何十人かに会えなくなった。
その計算を、私は今度は逃げずにやった。やって、それでよかったと思っている。よかったと思っていることが正しいのかは、分からない。
最後に、この人はこう書いた。
「点、明日も打つ」
「はい」
「打つから」
「待っています」
私は台帳を開いて、今夜の判断に印を付けた。
艦長由来ではない。起源不明でもない。私由来。
こんな印を書いたのは初めてだった。書いてみて、思ったより怖かった。艦長の言葉を借りている限り、間違えても、それは借り物のせいにできる。今夜のは、全部、私が選んだ。
誰も読まない日誌に、私は書いた。
艦長。今日、私では足りないと、自分から言いました。