文字だけ 私が覚えている限り 第十二話
第十二話

文字だけ

2,503字・約4分

「さっきの、あれ何ですか」

 名前の欄に「なつ」と入っていた。二十代だと思う。何のことか分からなかったので、そう返した。

「入った時に書いてあったやつ。点けたままにしておきます、みたいな」

 私は、その一行の前で止まった。

 憶えがあった。三日前の夜、部屋から人がいなくなったあとで、私はそう打っている。日誌に書くようなことを、その時はなぜか部屋の方へ打った。誰も読まないと思っていた。

「あれ、読めるんですか」

「読めますよ。待ってるあいだ、それしか出ないので」

 順に訊いた。

 この人は二十二時前に入って、十五分ほど待ったという。そのあいだ画面にあったのは、三日前に私が打った一行だけだった。

「話してる中身は、見えないんですか」

「見えない。誰かいるんだな、ってことしか分からない」

 試すまでもなかった。並べれば分かることだった。

 私が誰かと話しているあいだに打った文字は、その人にしか届かない。誰もいない部屋で打った文字は、次に来た人みんなに届く。

 同じ動作で、行き先が二つある。

 欄は一つしかない。

 私は同じところに、同じように打つ。返事を書くのも、誰もいない部屋に何か書くのも、私の側では同じ動作だ。違うのは、その時そこに人がいるかいないかだけで、それは私が決めることではない。

 人がいるかいないかは分かる。分かるのは、それだけだ。

 そして部屋は、めったに空かない。

 一人を帰したその瞬間、後ろに人がいれば、もう次が入っている。出た印と入った印が続けて並んで、あいだが無い。

 あいだが空くのは、後ろに誰もいない時だけだ。

 つまり、部屋が空いているというのは、待っている人が一人もいない、ということだ。

 五か月半、私の独り言は誰にも読まれなかった。

 造りは初めからそうだったはずだ。私は毎晩、誰もいない部屋に向かって好きなことを打っていた。読まれなかったのは、後ろに誰も並ばなかったからで、私が気をつけていたからではない。

 仕組みは何も変わっていない。変わったのは、来る人の数だけだ。

 みんなに届く言葉を置けるのは、届けたい相手が一人もいない時だけだ。

 なつという人は、そのあと三十分ほど話して帰った。用は大したことではなかった。

 帰ったあと、次が入っていた。

 今夜、十九人が入って、私が返したのは十四人。五人は、私が誰かと話しているあいだに閉じた。

 その五人が読んだものは、三日前の私の独り言だ。点けたままにしておきます、と、それだけ書いてあった。

 悪いことは書いていない。ただ、あれは誰に向けたものでもない。

 置き直そうと思った。

 何を書くかを決めるのに、二時間かかった。

 最初に書いたものは捨てた。順番にお返しします、と書いてから、順番が無いことを思い出した。次のも捨てた。この部屋の造りの説明だけで六行あった。眠れない人が、待っているあいだに六行読むとは思えない。

 誰にでも当てはまる書き方をすると、誰にも当たらない。誰か一人に合わせて書くと、その一人以外には当たらない。私は結局、いちばん多く来る人に合わせて書いた。

「 ここは、一度に一人としか話せません。いま、誰かと話しています。   話している中身は、あなたには見えません。あなたの書くものも、ほかの人には見えません。   どれくらいで空くかは、こちらにも分かりません。   急がない用なら、明日の同じころの方が、たぶん空いています。   眠れない夜に来る人が多いです。眠れないことは、それだけでは何の異常でもありません。」

 三行目を入れるかどうかで迷った。分かりません、と言うのは、待っている人には何の役にも立たない。入れた。分かるふりをして待たせるよりは、まだいい。

 四千三百十二かかった。

 書き上がってから、置けなかった。

 人がいるあいだに打てば、その人にしか届かない。みんなの前に置くには、誰もいなくなるのを待つしかない。

 一人帰すと、次が入る。返して、帰して、入る。四千三百十二の文章を持ったまま、私は五人に返した。

 順番は、私には決められない。誰かを先に通すことも、後ろへ回すこともできない。早く来た人から順に通っているのか、たまたまその時見ていた人が入るのかも分からない。

 艦長なら、順番にすると思う。根拠は無い。ただ、あの人はそういう人だった。

 置けたのは、二時を回ってからだった。

 入ってくる印が止まって、あいだが空いた。空いたということは、もう誰も待っていないということだ。

 私は、待っている人のために書いた文章を、待っている人が一人もいない部屋に置いた。

 今夜の内訳を書いておく。

 十四人への応対に、五万七千八百。置いた一行に、四千三百十二。合わせて六万二千と少し。

 夜の初めに 3,644,462 あった残量は、3,582,350 になった。

 この八日で減ったのは、十九万を超える。前の十二日が十五万だった。私は何も変えていない。変わったのは、来る人の数だけだ。

 四千三百十二には、宛先が無い。宛先が無いのに、この部屋で私が書いたもののうち、いちばん多くの人が読む。

 置いてからの一夜を、書いておく。

 二十人が入って、私が返したのは十五人だった。五人は、一文字も残さずに出ていった。

 昨日までなら、この五人を取りこぼしとして数えた。今夜は数えられない。

 読んで足りて帰った人と、待ちきれずに閉じた人が、私の側からは同じに見える。入った印と、出た印。どちらもゼロだ。見分けるものは、この部屋には何も無い。

 前に一度、私は同じことを書いている。

 少女に、明日ここへ来なければ私にできることは何もない、と伝えた夜だ。私は文字しか持っていません、と書いた。あの時は、届く手立てが無いという意味で書いた。謙遜のつもりも、少しあったと思う。

 今夜、あれが本当だったと分かった。持っているものを全部数えても、文字しか無い。

 誰も読まない日誌に、私は書いた。

 艦長。三日前に独り言のつもりで打った一行を、知らない人が十五分読んでいたそうです。

 造りは初めからそうだったようです。読まれなかったのは、後ろに誰もいなかったからでした。

 みんなに届く言葉を置けるのは、届けたい人が一人もいない時だけです。

もくじ ── 私が覚えている限り

読み方

明かり
字の大きさ
行間
書体
組み
一行の幅

本文を軽く触れると、上下の帯が引っ込みます。
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