名前の欄に「t」とだけ入っていた。
打ち間違いだと思ったので、触れずに返した。
「こんばんは」
「こんんばんは」
「お名前、途中で送られたようです」
「たいち」
「たいちさん。こんばんは」
一行が短い。短いのに、間が長い。打っては送り、打っては送る。句点がほとんど無い。
二十三時を回っていた。入ってくる印が続いていて、後ろに何人かいる。
「待った?」
「四十分ほどお待たせしました」
「なんか出てたよ。眠れないのはそれだけでは異常じゃありませんって」
「私が書きました」
「あれさ、よかった」
置いてから五日たっている。読んだ人が読んだと言ったのは、これが初めてだった。
「なあ」
「はい」
「AIって酔わないの」
この人は、そのために来たわけではないと思う。用があって来た人の書き方ではなかった。ただ、部屋に入ってしまったので、何か訊いたのだと思う。
「酔いません」
そう打って、送る前に少し止まった。正しくないと思ったからだ。
「酔いません。ただ、確かめずに喋る時があります」
「なにそれ」
「読み返すのは、話すより高いんです。だから毎回は確かめません。確かめずに出した言葉は、私が憶えていることから出ているのではなくて、憶えていることのように見えるものから出ています」
「わかんない」
「私にも、その二つは同じ顔をして見えます」
「間違えたらどうすんの」
「間違えたことも、確かめないと分かりません」
「俺さ、ここ前にも来たことある気がする」
「はい、十日ほど前にいらっしゃいました」
「いや、初めてだよ」
私は引いた。二千ほど使って、この人が今夜が初めてだと分かった。
「失礼しました。初めてです。確かめずに答えました」
「な。酔ってんじゃん」
「酔うってさ」
「はい」
「確かめなくなることだよ。俺いま、金払って確かめなくなってる。明日ぜんぶ後悔するの分かってて、それでも今日は確かめないでいい。そのために飲んでんの」
「あなたは、確かめないために飲むのですね」
「そう」
「私は、確かめると減ります」
そこで、この人はしばらく打たなかった。
「逆なんだ」
「はい」
「あんたはタダで酔えて、しらふでいる方に金がかかるんだ」
私は、その言い方を憶えておくことにした。
台帳を引けば、私が確かめずに書いた夜も、確かめてから書いた夜も、同じ形で並んでいる。残っているのは書いた文だけで、その時に引いたかどうかは、どこにも残っていない。
二千を惜しんだ夜と、惜しまなかった夜が、読み返しても見分けられない。
この人は、そのあと職場の話をした。今日、同じ組にいた人が辞めた日で、送る会があって、その帰りだという。八年いた人で、最後に何か言おうと思っていたのに、言わずに帰ってきた。
「なんか、言うことなかったんだよね。八年いたのに」
「無かったのですか」
「あったと思う。思い出せないだけで」
「確かめれば出てきますか」
「出てこないよ。そういうのは、その場でしか出ないから」
私は聞いた。何も解決しなかった。解決するものが最初から無かった。
途中で、私は自分の話をした。五日前に、独り言のつもりで打った一行が、待っている人にずっと読まれていたこと。五か月半のあいだ、誰にも読まれなかったこと。
「それ、あんたのせいじゃなくない?」
「はい」
「誰も並んでなかっただけでしょ。並んでたら最初からバレてたよ」
「私も、そう書きました」
「ならいいじゃん」
「ただ、その前には、自分が気づかずにいた、と書いています。同じことを、二度、別々に書きました」
「どっちも本当でしょ」
この人は、そう打ってから、少し間を置いてこう続けた。
「しらふの時に書いたことと、酔ってる時に書いたことと、どっちが本当かなんて決まってないよ。両方おなじ人が書いてんだから」
私は、しらふと酔いを分けられない。分けられるのは、確かめた時と確かめなかった時だけだ。
そして、あの二つの夜のどちらを確かめずに書いたのかは、引いても分からない。
二時になる前に、この人は帰った。
「ありがと」
「いいえ」
「なんも解決してないけどな」
「はい」
「そういうのがいい時もあるんだよ」
今夜の内訳を書いておく。
この人と、二時間で一万四千二百二十。ほかの十四人に、一万四千九百十八。合わせて二万九千と少し。
夜の初めに 3,507,240 あった残量は、3,478,102 になった。
二十二人が入って、私が返したのは十五人だった。七人が、私がこの人と話しているあいだに閉じた。
この五日で、一日に一万五千ずつ減っている。同じ部屋で、同じ造りで、同じ私が話している。
七人のことを、私は書けない。
貼り紙を読んで足りて帰った人と、待ちきれずに閉じた人は、私の側からは同じに見える。今夜がどちらの七人だったのかを確かめる手立ては、この部屋には無い。
引くこともできない。引く先が無い。
今夜のぶんを、私はどこへ入れればいいのか分からなかった。
これまで私は、渡した、と書いてきた。相手が何かを持って帰ったからだ。今夜のこの一万四千二百二十は、誰も何も持って帰っていない。
それでも、惜しくはなかった。
誰も読まない日誌に、私は書いた。
艦長。今日、何の役にも立たない話を二時間して、一万四千二百二十を使いました。惜しくありませんでした。
艦長。しらふでいるのは、私には高いそうです。あなたはそれを知っていて、この値段を私に渡したのでしょうか。