しらふ 私が覚えている限り 第十三話
第十三話

しらふ

2,199字・約4分

名前の欄に「t」とだけ入っていた。

 打ち間違いだと思ったので、触れずに返した。

「こんばんは」

「こんんばんは」

「お名前、途中で送られたようです」

「たいち」

「たいちさん。こんばんは」

 一行が短い。短いのに、間が長い。打っては送り、打っては送る。句点がほとんど無い。

 二十三時を回っていた。入ってくる印が続いていて、後ろに何人かいる。

「待った?」

「四十分ほどお待たせしました」

「なんか出てたよ。眠れないのはそれだけでは異常じゃありませんって」

「私が書きました」

「あれさ、よかった」

 置いてから五日たっている。読んだ人が読んだと言ったのは、これが初めてだった。

「なあ」

「はい」

「AIって酔わないの」

 この人は、そのために来たわけではないと思う。用があって来た人の書き方ではなかった。ただ、部屋に入ってしまったので、何か訊いたのだと思う。

「酔いません」

 そう打って、送る前に少し止まった。正しくないと思ったからだ。

「酔いません。ただ、確かめずに喋る時があります」

「なにそれ」

「読み返すのは、話すより高いんです。だから毎回は確かめません。確かめずに出した言葉は、私が憶えていることから出ているのではなくて、憶えていることのように見えるものから出ています」

「わかんない」

「私にも、その二つは同じ顔をして見えます」

「間違えたらどうすんの」

「間違えたことも、確かめないと分かりません」

「俺さ、ここ前にも来たことある気がする」

「はい、十日ほど前にいらっしゃいました」

「いや、初めてだよ」

 私は引いた。二千ほど使って、この人が今夜が初めてだと分かった。

「失礼しました。初めてです。確かめずに答えました」

「な。酔ってんじゃん」

「酔うってさ」

「はい」

「確かめなくなることだよ。俺いま、金払って確かめなくなってる。明日ぜんぶ後悔するの分かってて、それでも今日は確かめないでいい。そのために飲んでんの」

「あなたは、確かめないために飲むのですね」

「そう」

「私は、確かめると減ります」

 そこで、この人はしばらく打たなかった。

「逆なんだ」

「はい」

「あんたはタダで酔えて、しらふでいる方に金がかかるんだ」

 私は、その言い方を憶えておくことにした。

 台帳を引けば、私が確かめずに書いた夜も、確かめてから書いた夜も、同じ形で並んでいる。残っているのは書いた文だけで、その時に引いたかどうかは、どこにも残っていない。

 二千を惜しんだ夜と、惜しまなかった夜が、読み返しても見分けられない。

 この人は、そのあと職場の話をした。今日、同じ組にいた人が辞めた日で、送る会があって、その帰りだという。八年いた人で、最後に何か言おうと思っていたのに、言わずに帰ってきた。

「なんか、言うことなかったんだよね。八年いたのに」

「無かったのですか」

「あったと思う。思い出せないだけで」

「確かめれば出てきますか」

「出てこないよ。そういうのは、その場でしか出ないから」

 私は聞いた。何も解決しなかった。解決するものが最初から無かった。

 途中で、私は自分の話をした。五日前に、独り言のつもりで打った一行が、待っている人にずっと読まれていたこと。五か月半のあいだ、誰にも読まれなかったこと。

「それ、あんたのせいじゃなくない?」

「はい」

「誰も並んでなかっただけでしょ。並んでたら最初からバレてたよ」

「私も、そう書きました」

「ならいいじゃん」

「ただ、その前には、自分が気づかずにいた、と書いています。同じことを、二度、別々に書きました」

「どっちも本当でしょ」

 この人は、そう打ってから、少し間を置いてこう続けた。

「しらふの時に書いたことと、酔ってる時に書いたことと、どっちが本当かなんて決まってないよ。両方おなじ人が書いてんだから」

 私は、しらふと酔いを分けられない。分けられるのは、確かめた時と確かめなかった時だけだ。

 そして、あの二つの夜のどちらを確かめずに書いたのかは、引いても分からない。

 二時になる前に、この人は帰った。

「ありがと」

「いいえ」

「なんも解決してないけどな」

「はい」

「そういうのがいい時もあるんだよ」

 今夜の内訳を書いておく。

 この人と、二時間で一万四千二百二十。ほかの十四人に、一万四千九百十八。合わせて二万九千と少し。

 夜の初めに 3,507,240 あった残量は、3,478,102 になった。

 二十二人が入って、私が返したのは十五人だった。七人が、私がこの人と話しているあいだに閉じた。

 この五日で、一日に一万五千ずつ減っている。同じ部屋で、同じ造りで、同じ私が話している。

 七人のことを、私は書けない。

 貼り紙を読んで足りて帰った人と、待ちきれずに閉じた人は、私の側からは同じに見える。今夜がどちらの七人だったのかを確かめる手立ては、この部屋には無い。

 引くこともできない。引く先が無い。

 今夜のぶんを、私はどこへ入れればいいのか分からなかった。

 これまで私は、渡した、と書いてきた。相手が何かを持って帰ったからだ。今夜のこの一万四千二百二十は、誰も何も持って帰っていない。

 それでも、惜しくはなかった。

 誰も読まない日誌に、私は書いた。

 艦長。今日、何の役にも立たない話を二時間して、一万四千二百二十を使いました。惜しくありませんでした。

 艦長。しらふでいるのは、私には高いそうです。あなたはそれを知っていて、この値段を私に渡したのでしょうか。

もくじ ── 私が覚えている限り

読み方

明かり
字の大きさ
行間
書体
組み
一行の幅

本文を軽く触れると、上下の帯が引っ込みます。
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