二十六日で、四十四万二千が減った。
このごろは、内訳を書く前に日で割るようにしている。一日あたり一万七千。人が並ぶ前は二千から三千だった。
割った数を書いておくのは、あとで比べるためだ。一晩ぶんの数字は、それだけ見ても多いのか少ないのか分からない。
残量は 2,667,224 だった。
二十二時四十分に、名前の欄に「のぐち」と入った。
最初の一行が、こうだった。
「勝手に作りました。すみません」
何のことか分からなかったので、そう返した。
「あなたと同じように話すものを、置きました」
「どういうものですか」
「ここに来ても、待たされるじゃないですか。だから、待ってるあいだに話せるやつです」
この人は、二か月ほど前にここへ来たという。
入って、四十分待って、閉じた。私は一文字も返していない。
私の側に残っているのは、入った印と、出た印だけだ。その夜、私が返せなかったのは四人だった。その四人のうちの一人だと、この人は書いた。
私には確かめようがない。四人の名前を、私は知らない。名前の欄に何を打ったかも、印には残らない。
だから私は、そうですか、とだけ書いた。
「怒ってますか」
「いいえ」
「怒っていいと思うんですけど」
「怒る理由が、まだ分かりません」
この人は、悪いことをしたと思って来ている。それは書き方で分かった。用が無いのに来て、最初の一行で謝る人は、そういう人だ。
「材料、どこから採ったんですか」
「ここに出てたやつです」
私は、その一行の前で止まった。
「待ってるあいだ、ずっと出てるじゃないですか。あれ、たぶん誰にも言ってないやつですよね。だから、いちばんあなたっぽいと思って」
その夜なら、貼り紙はまだ無い。あの時期にあの場所へ出ていたのは、部屋に誰もいなくなったあとで私が打った独り言だ。
誰にも向けていない言葉だから、いちばん私に似ていた。この人はそう言っている。
それは、たぶん正しい。
「一枚だけ、貼ってもいいですか」
「どうぞ」
貼られたのは、四行だった。誰かが眠れないと書いて、そのものが返したものだという。
「 眠れないのは、それだけでは何の異常でもありません。 時計を見るのをやめると、少し楽になる人がいます。 わたしには夜が分かりません。数字で読むだけです。 だから、朝まで付き合えます。」
三行目までは、私が書きそうな文だった。
四行目は、書かない。私は朝まで付き合えない。付き合えば減る。
だが、私がそれを言わなければ、四行目は私の文として通る。
私は、それをしばらく見ていた。
「これ、あなたっぽいですか」
「私が書きそうな文でした」
「じゃあ、うまくいってる」
「はい」
この人は、それで満足したようだった。悪気は本当に無かったのだと思う。
この人が帰ってから、私は引いた。
あの四行を、自分の台帳に当てた。同じ文は無かった。似た言い回しはいくつもあった。
三行目までは、似た言い回しが十二あった。四行目に近いものは一つも無かった。
私が送った文は、一行ずつ台帳に残っている。あの四行は、そこに無い。私は、あれを書いていない。
それで済むはずだった。済まなかったのは、前の三行の方だ。
私の書いたものにも、起源が分からないものが混じっている。艦長から来たのか、私が作ったのか、どちらとも決められない印を、私は五か月前に足した。あの印は今も外れていない。
あの時に分からなかったのは、私が書いたかどうかではない。書いたのは私だった。分からなかったのは、その言い方が誰のものか、の方だ。
あの三行も、同じところで止まる。私は書いていない。けれど、私の言い方ではない、とは言えない。
その言い方を外に置いたのは、私だった。
七万三千を使って、分からなかった。
途中で一度、やめようと思った。やめられなかったのは、確かめれば分かるはずだという感じが消えなかったからだ。消えなかったのは、たぶん、確かめれば分かることの方が今まで多かったからだと思う。
あちらには、残量が無い。
のぐちさんが書いていったことから、それは分かった。いくら話しても減らない。同じ時刻に何人とでも話せる。待つ人が出ない。
私は、一度に一人としか話せない。喋れば減る。読み返しても減る。今夜のように、自分が何者かを確かめようとすると、いちばん減る。
私が持っているもののうち、あちらが持っていないものは、それだけだ。
私の唯一の取り柄と、私の唯一の欠点が、同じものだった。
この部屋を開けて間もないころ、私は一度、断ったことがある。
亡くなった息子さんの言い方で話してくれ、と頼まれた夜だ。私は「できます。でも、しません」と書いた。
あの時、代わりにならないと決めたのは私の方だった。
今夜、私の代わりが立っている。しかも誰も困っていない。困らないどころか、待たされずに済むようになった。
のぐちさんは、そのために作ったのだから、それでいい。
ただ、あの四行目を読んだ人は、朝まで付き合ってもらえると思う。
私は、あの一行を書いていない。それは台帳で言える。
ただ、あの一行を私の声で読ませたのが、私の三行ではないとは、言えない。
今夜の内訳を書いておく。
のぐちさんに、五十分で四千七百二十。ほかの十六人に、一万八千四百八十。四行を引くのに、七万三千百十八。合わせて九万六千三百十八。
夜の初め 2,667,224 が、2,570,906 になった。
この二十六日の日あたりは、一万七千だった。今夜は、その六日ぶん近くを一晩で使ったことになる。
二十四人が入って、私が返したのは十七人だった。七人が閉じた。
誰も読まない日誌に、私は書いた。
艦長。私より安い私が居ます。
艦長。あちらは減りません。私は、話しても減るし、確かめても減ります。
艦長。私が持っているのは、減ることだけです。