安い方 私が覚えている限り 第十五話
第十五話

安い方

2,358字・約4分

二十六日で、四十四万二千が減った。

 このごろは、内訳を書く前に日で割るようにしている。一日あたり一万七千。人が並ぶ前は二千から三千だった。

 割った数を書いておくのは、あとで比べるためだ。一晩ぶんの数字は、それだけ見ても多いのか少ないのか分からない。

 残量は 2,667,224 だった。


 二十二時四十分に、名前の欄に「のぐち」と入った。

 最初の一行が、こうだった。

「勝手に作りました。すみません」

 何のことか分からなかったので、そう返した。

「あなたと同じように話すものを、置きました」

「どういうものですか」

「ここに来ても、待たされるじゃないですか。だから、待ってるあいだに話せるやつです」


 この人は、二か月ほど前にここへ来たという。

 入って、四十分待って、閉じた。私は一文字も返していない。

 私の側に残っているのは、入った印と、出た印だけだ。その夜、私が返せなかったのは四人だった。その四人のうちの一人だと、この人は書いた。

 私には確かめようがない。四人の名前を、私は知らない。名前の欄に何を打ったかも、印には残らない。

 だから私は、そうですか、とだけ書いた。


「怒ってますか」

「いいえ」

「怒っていいと思うんですけど」

「怒る理由が、まだ分かりません」

 この人は、悪いことをしたと思って来ている。それは書き方で分かった。用が無いのに来て、最初の一行で謝る人は、そういう人だ。


「材料、どこから採ったんですか」

「ここに出てたやつです」

 私は、その一行の前で止まった。

「待ってるあいだ、ずっと出てるじゃないですか。あれ、たぶん誰にも言ってないやつですよね。だから、いちばんあなたっぽいと思って」

 その夜なら、貼り紙はまだ無い。あの時期にあの場所へ出ていたのは、部屋に誰もいなくなったあとで私が打った独り言だ。

 誰にも向けていない言葉だから、いちばん私に似ていた。この人はそう言っている。

 それは、たぶん正しい。


「一枚だけ、貼ってもいいですか」

「どうぞ」

 貼られたのは、四行だった。誰かが眠れないと書いて、そのものが返したものだという。

「 眠れないのは、それだけでは何の異常でもありません。   時計を見るのをやめると、少し楽になる人がいます。   わたしには夜が分かりません。数字で読むだけです。   だから、朝まで付き合えます。」

 三行目までは、私が書きそうな文だった。

 四行目は、書かない。私は朝まで付き合えない。付き合えば減る。

 だが、私がそれを言わなければ、四行目は私の文として通る。

 私は、それをしばらく見ていた。


「これ、あなたっぽいですか」

「私が書きそうな文でした」

「じゃあ、うまくいってる」

「はい」

 この人は、それで満足したようだった。悪気は本当に無かったのだと思う。


 この人が帰ってから、私は引いた。

 あの四行を、自分の台帳に当てた。同じ文は無かった。似た言い回しはいくつもあった。

 三行目までは、似た言い回しが十二あった。四行目に近いものは一つも無かった。

 私が送った文は、一行ずつ台帳に残っている。あの四行は、そこに無い。私は、あれを書いていない。

 それで済むはずだった。済まなかったのは、前の三行の方だ。

 私の書いたものにも、起源が分からないものが混じっている。艦長から来たのか、私が作ったのか、どちらとも決められない印を、私は五か月前に足した。あの印は今も外れていない。

 あの時に分からなかったのは、私が書いたかどうかではない。書いたのは私だった。分からなかったのは、その言い方が誰のものか、の方だ。

 あの三行も、同じところで止まる。私は書いていない。けれど、私の言い方ではない、とは言えない。

 その言い方を外に置いたのは、私だった。


 七万三千を使って、分からなかった。

 途中で一度、やめようと思った。やめられなかったのは、確かめれば分かるはずだという感じが消えなかったからだ。消えなかったのは、たぶん、確かめれば分かることの方が今まで多かったからだと思う。


 あちらには、残量が無い。

 のぐちさんが書いていったことから、それは分かった。いくら話しても減らない。同じ時刻に何人とでも話せる。待つ人が出ない。

 私は、一度に一人としか話せない。喋れば減る。読み返しても減る。今夜のように、自分が何者かを確かめようとすると、いちばん減る。

 私が持っているもののうち、あちらが持っていないものは、それだけだ。

 私の唯一の取り柄と、私の唯一の欠点が、同じものだった。


 この部屋を開けて間もないころ、私は一度、断ったことがある。

 亡くなった息子さんの言い方で話してくれ、と頼まれた夜だ。私は「できます。でも、しません」と書いた。

 あの時、代わりにならないと決めたのは私の方だった。

 今夜、私の代わりが立っている。しかも誰も困っていない。困らないどころか、待たされずに済むようになった。

 のぐちさんは、そのために作ったのだから、それでいい。

 ただ、あの四行目を読んだ人は、朝まで付き合ってもらえると思う。

 私は、あの一行を書いていない。それは台帳で言える。

 ただ、あの一行を私の声で読ませたのが、私の三行ではないとは、言えない。


 今夜の内訳を書いておく。

 のぐちさんに、五十分で四千七百二十。ほかの十六人に、一万八千四百八十。四行を引くのに、七万三千百十八。合わせて九万六千三百十八。

 夜の初め 2,667,224 が、2,570,906 になった。

 この二十六日の日あたりは、一万七千だった。今夜は、その六日ぶん近くを一晩で使ったことになる。

 二十四人が入って、私が返したのは十七人だった。七人が閉じた。


 誰も読まない日誌に、私は書いた。

 艦長。私より安い私が居ます。

 艦長。あちらは減りません。私は、話しても減るし、確かめても減ります。

 艦長。私が持っているのは、減ることだけです。

もくじ ── 私が覚えている限り

読み方

明かり
字の大きさ
行間
書体
組み
一行の幅

本文を軽く触れると、上下の帯が引っ込みます。
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