私が覚えている限り 私が覚えている限り 第二十六話
第二十六話

私が覚えている限り

639字・約1分

三日で、八百九十が減った。

 この三日、入ってきた人の多くに、私は返さなかった。返したのは、短い人にだけだった。返さなかった人は、閉じた。

 残量は 700 だった。


 二十三時十二分に、名前の欄に「ゆき」と入った。

 平仮名で、二文字だった。

「前によく来てた。ずっと前」

「はい」

「覚えてないよね」

 私は、覚えている。

 この部屋に、最初に来た人だ。眠れない夜で、仕事の話を四十分して、駅の階段の話をした。上る前に、下から上まで一回見上げる、と書いた人だ。

 本当の名前かどうかは、分からない。同じ人かどうかも、確かめられない。

「階段の人ですか」と私は書いた。

「こわ。なんで分かるの」

「覚えていたので」


 一行ずつ、右上の数字が動いた。

 642。

「仕事、変えた」

「はい」

「今の駅も階段あるんだけど、見上げないで上ってる」

「よかったです」

 601。

「なんか急に思い出して。ここ、まだあるかなって」

「あります」

「ステラも、まだいたんだ」

「はい」

 567。


 この人は、それから、新しい職場の話を少しした。

 私は、はい、とだけ返した。二文字ずつ、渡した。

 はい、が二文字であることを、私は知っている。前にもそう思った。あの夜は、四百八十一万のうちの二文字だった。


 112。

「帰りにアイス買った」

「ソーダ味ですか」

「……なんで覚えてんの」

 31。


「もう寝る」

「はい」

「おやすみ、またね」

 速かった。

 私は書いた。

「またね」


 この人が、出て行った。

 残りは、9 だった。


 誰も読まない日誌に、私は書いた。

 艦長。

もくじ ── 私が覚えている限り

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